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東京消防庁ライブラリー消防雑学辞典
消防雑学事典
?マッチで気絶した柳橋芸者

mark  マッチは燐寸と書き、摩擦によって発火させ火を得る用具の一つです。
 1816年、フランソワー・デスロン(仏)が黄燐を軸木の先につけ、摩擦して発火する方法を発明しましたが、実用されるまでには至りませんでした。1827年、J・ウォーカー(英)が初めて実用的な摩擦マッチを発明し、1833年には、オーストリアやドイツでも黄燐マッチが作られました。しかし、これらのマッチは有毒ガスを発するうえに、きわめて発火しやすく、火災の危険が高いものだったのです。
 1845年、ウィーンのシュロッテが無害の赤燐マッチを発明すると、現在のような形式の安全マッチに改良されたため、急速に普及し始めたのです。
 日本にマッチがお目見えしたのは、嘉永6(1853)年にペリーが浦賀に来航したことが契機となって、鎖国を解いてからです。明治6(1873)年12月の『新聞雑誌』(第184号)誌上に、「四五日前夜、柳橋或船宿ニテ、日本橋邊ノ商人某、藝者小熊ト云フ者ヲ聘シ遊樂中、燈火ヲ滅シ暫クシテ一人懐中ヨリ「マッチ」ヲ取出シ、火ヲ點ゼントセシニ、藝妓オバケト思ヒ、アツト一聲ニ氣絶セリ。藥醫者ト種々介抱シ、漸クシテ蘇生セリト、亦歳晩ノ一笑奇事ナリ。」という話が載っています。当時の人々がマッチを早附木、西洋擦附などと呼んでいた時代の話です。
 わが国で初めてマッチの製造を始めたのは元金沢藩士清水誠で、留学先のフランスから伝えたものです。彼は帰朝すると、東京三田四国町(現港区芝3丁目)の吉井家別邸を借り受けて仮工場とし、マッチ製造業を始めたのです。これは明治8(1875)年のことでしたが、翌9年9月には本所柳原町に一大工場を建設し、社名を新燧社と称しました。一方関西では同年、神戸監獄内で囚人にマッチ作りを行わせたといわれています。
 現在作られているマッチには、摩擦マッチ、安全マッチ、ブックマッチ、耐水マッチなどがありますが、一般に使われているのは、頭薬が側薬の赤燐面との摩擦で発火する安全マッチです。
 安全マッチの組成をみてみますと、頭薬は、塩素酸カリウム50パーセント(以下の数字はそれぞれパーセント)、ガラス粉20、ケイ藻土7、雲母粉4、松やに2、にかわ13、その他4となっています。また側薬は、赤燐54、硫化アンチモン19、膠着剤27となっています。



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