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東京消防庁ライブラリー消防雑学辞典
消防雑学事典
?火附盗賊改・鬼の平蔵

mark  今日、江戸市中を巡回して、放火犯や盗賊の逮捕、博徒の取締りなどを任務としていた「火附盗賊改(ひつけとうぞくあらため)」の活躍ぶりを知ることのできるものの一つに、池波正太郎氏が書いた『鬼平犯科帳』があります。

鬼の平蔵(中村吉右衛門)
(松竹株式会社 提供)
鬼の平蔵(中村吉右衛門)  これは火附盗賊改の長官として、盗賊などから「鬼の平蔵」と恐れられていた長谷川平蔵宣以(のぶため)を主人公に、昭和42(1967)年に時代小説として世に出た後、テレビ化・舞台化され、今や捕物のヒーロー的な存在となっています。
 火附盗賊改は、寛文5(1665)年に設けられた後、一時期廃止された時期もありましたが、慶応2(1866)年まで続きました。
 はじめは幕府の職制上の職務ではなく、通称として用いられていたものが、いつしか正式な職名になったようで、盗賊考察、盗賊改、火賊考察、博徒考察、博奕改などといろいろな名称で呼ばれていましたが、江戸末期の武鑑には、すべて「火附盗賊改役」として掲載されており、略して「火盗改」ともいわれていました。
 火附盗賊改役は町奉行と異なり、火附盗賊改役自身が市中を忍び回り、犯人を捕らえることも行っていました。
 また、職名のように放火・盗賊・博奕の取締りや、犯人の検挙から取調べも行っていましたが、町奉行のような市政・治安の維持ということよりも、犯罪者を減らすことを目的として活躍していました。
 『鬼平犯科帳』の主人公、長谷川平蔵宣以が火付盗賊改の役を命じられたのは、天明7(1787)年年9月19日で、このときの世情は、天明の大飢饉の影響を受けて、米の値段が高騰するなど、一揆やうちこわしが全国で起こっていました。
 また、老中田沼意次が失脚し、松平定信が老中首座につくなど、物情騒然という状況下にありました。長谷川平蔵宣以が、無宿無頼がうごめく江戸の犯罪をみごとに取り仕切ったのは、小普請組に属していたとき、下層階級の人たちと付き合っていたことが、無頼の徒の実情に通じる結果となったもので、北町の名奉行・遠山左衛門尉景元(さえもんのじょうかげもと)とよく似た体験の持ち主といわれています。
 長谷川平蔵宣以は、寛政7(1795)年5月16日に火附盗賊改を辞職し、辞職直後の同年5月19日に死去しました。鬼平は、寛政の改革の中で本職に殉じたことになります。
 長谷川平蔵宣以の父長谷川平蔵宣雄(のぶお)も、明和8(1771)年10月17日から明和9(1772)年10月15日までの一年間、火附盗賊改役を勤めていますが、この間に江戸三大大火の一つである目黒行人坂の火災の放火の犯人を捕らえています。
 次にこの火災の概要と犯人像を紹介します。
 火災の概要は、『武江年表』を要約しますと、
 「明和9(1772)年2月29日、西南の風烈しく、土烟天を覆ひ日光朦朧(もうろう)たり。牛の刻(12時)目黒行人坂大円寺より出火し、麻布、廓内、京橋、日本橋、神田、本郷、下谷、浅草寺を延焼し、余焔千住に達す。日暮、火又本郷丸山に発し、駒込、谷中、根岸を焼き、翌晦日未刻(14時)双方の火鎮り、此時大雨降風鎮る。此火事長さ六里、幅一里、大小名藩邸寺院神社町屋の類夥(おびただ)しく、焼死怪我人其数を知らず」と記されています。

目黒行人坂の火災絵巻
目黒行人坂の火災絵巻

 この火災は、焼失面積において明暦3(1657)年の大火には及びませんが、目黒から千住まで細長く燃え広がり、延焼距離としては、江戸時代から現代までで最も長い火災です。『北叟遺言』によると、被害は、焼失町数934町、死者14,700人と記されています。
 大円寺からの出火は、坊主くずれの無頼漢長五郎(坊主名を真秀)が、大円寺の和尚に破門されたことを根にもって、庫裡(くり)に火を付けたものですが、長五郎が怪しいとにらんだのが、宣以の父長谷川平蔵宣雄で、持前の鋭い勘と執拗な追跡によって、長五郎を捕らえました。長五郎の余罪は甚だしく、14歳のときに、奉公先の主人に叱られた腹いせに屋敷に火を付け、どさくさにまぎれて衣類を持ち逃げしたのをはじめ、親から勘当されると金子を盗んで逐電し、大円寺の修行僧として住み込んだときにはお布施をちょろまかし、破門されれば無宿者と馴れ合って、町屋に忍んで盗みを働くなど、悪行の限りをつくす極悪人で、36歳のとき、大円寺への放火の罪で捕らえられました。
 長五郎は火付けの科(とが)人としてはだか馬に縛り上げられ江戸市中を引き回された後、明和9(1772)年6月21日、浅草の仕置場で火焙りの刑に処せられました。
 処刑されるとき長五郎は、「御当世は、御倹約ばやりであるから、自分も五件焼くつもりでやったが、大きな火事になってしまった」とうそぶいたと伝えられています。
 火災があまりに大きかったため物価は高騰し、庶民生活に大きな打撃を与えました。このため幕府は世直しの一つとして、その年の11月16日に年号を「安永」と改元しましたが、明和9年の年号に引っ掛けて「年号は安く永しと変われども、諸色高直(こうじき)いまにめいわく」という狂歌が詠まれるなど、火災後の市民生活は大変だったようです。



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