このページの本文へ移動
東京消防庁ライブラリー消防雑学辞典
消防雑学事典
?明暦の大火とエピソード

mark  明暦の大火(明暦3年)は、俗に“振袖火事”と呼ばれ、江戸三大大火(本火災と目黒行人坂の火災(明和9年2月29日)と丙寅の火災(文化3年3月4日)をもって三大火災といっている)の一つに数えられています。
 江戸の町は、明暦2年の11月から翌3年1月にかけて80日近くも雨が降らず、カラカラの天気が続いていました。大火が発生した1月18日は北西の強風が吹いて、砂ぼこりが舞い上がり、人の往来もまばらな日であったと伝えられています。現代ならば、さしずめ異常乾燥注意報が出される状況だったのです。
 火災は、本郷丸山の徳栄山惣持院本妙寺(現在は豊島区巣鴨5丁目に移転・旧在所は文京区本郷5丁目菊坂付近)から午後2時ごろ発生して、湯島から神田あたりを経て八丁堀から霊厳島・佃島さらには石川島にも及びました。
 明けて19日に火はいったん衰えましたが、北風は相変わらず強く吹き荒れていました。午前10時過ぎに再び小石川伝通院前の新鷹匠町から出火し、前日に焼け残った水戸邸など含む小石川一帯を焼きつくし、さらに濠を越えて飯田橋から江戸城本丸、二之丸、三之丸をも焼く大火となってしまいました。夜がふけて、ようやく火も鎮まったかとみえたのもつかの間、麹町5丁目から再度火の手が上がり、桜田門一帯の大名屋敷や西之丸下の武家屋敷を焼き、二手に分かれた火は鉄砲洲や芝の海浜にまで延び、江戸の町をほとんど焦土と化してしまったのです。
 斎藤月岑は、この大火の被害状況を『武江年表』に「万石以上の御屋敷五百余宇、御旗本七百七十余宇、堂社三百五十余宇、町屋四百町、焼死十万七千四十六人といへり」と記しています。

むさしあぶみ(明暦の大火の記録書)
むさしあぶみ(明暦の大火の記録書)  この火災は、わが国において今日に至るまで、一件の火災としては焼損面積、死者ともに一番の多かった火災で、死者は、JR両国駅の近くの回向院に葬られています。
 ところで、この大火で特筆されることは、火災後の都市づくりと火災に関わるエピソードが数多く残っていることです。
 復興対策としては、区画整理のための建築制限令の公布、両国橋の架設、神社仏閣の移転、屋根の防火対策、広小路・火除土手の設置などが行われました。
 江戸城を防備するために、それまで隅田川には千住大橋しか架けられていなかったのですが、川向こうの本所方面に逃げられずに焼け死んだ人たちが多かったことから、大火後、本所方面の開発に合わせて、万治2(1659)年、隅田川にはじめての橋として両国橋が架けられました。また、神社仏閣の燈明が火元となる場合が多かったので、江戸の町の中心部にあった寺は、浅草、駒込、三田などに移転する措置がとられたのです。
 なお、関東大震災による東京の死者は、約6万人、空襲による東京の死者は、約10万人という数字からみても、この明暦の大火の被害が、いかに大きなものであったかが分かります。
 さて、大火の原因となったいわゆるカラカラ天気に関する気象庁の記録を調べてみますと、大正時代以降その最長期間は、大正6(1917)年11月3日から翌年2月2日にかけて大分県で記録された92日間というのがあります。東京では気象庁が観測を開始して以後、平成7年末までの間では、昭和48(1973)年11月11日から翌年1月20日までの71日間が最長で、この間に2,569件の火災が発生し、51,013平方メートルを焼損したほかに、58人の死者が出ています。
 これによりこの年は、火災による死者は166人に達し、開庁以来今日に至るまで、最悪の死者数を記録することになりました。

明暦の大火供養塔(本妙寺・豊島区巣鴨)
明暦の大火供養塔(本妙寺・豊島区巣鴨)  明暦の大火は、江戸開府以来の大火であったため逸話も多く残っています。その代表が振袖火事といわれるもので、話の内容は同じでも、登場する娘の名前や、振袖に関することの記述が異なったものがいくつかあります。
 3人の娘の名は、江島屋の娘、真田屋の娘とするものから、きの・いく・梅野とするもの、きく・花・たつとするものなど様々です。また、問題の振袖にしても、事のきっかけになった上野の花見の日に娘が着ていたものとするもの、娘が見初めた寺小姓が着ていた着物の色模様に似せてこしらえたもの、はてはそんなことには関係なく、はじめに死んだ娘の棺に入っていたなど、いろいろあるようです。
 ごく一般的な振袖火事のいわれを次に記します。
 「上野の神商大増屋十右衛門の娘おきくは、一家総出の上野の花見で、美しい寺小姓を見初め、それからというもの小姓が着ていた振袖の色模様に似せた振袖をこしらえてもらい、寝ても覚めても寺小姓を想う毎日が続きました。しかし、恋しい人にも巡り合えず、恋の病に臥せったまま、ついに明暦元年1月16日、16歳(17歳とする説もある。以下二人の娘も同じ)の花の命は散ってしまいました。両親は娘の気持ちを哀れみ、娘が気に入っていた振袖を棺の上に掛けて、本郷丸山の本妙寺に葬りました。
 寺では35日の法事が済むと、しきたりどおり振袖を古着屋へ売り払いました。
 本郷元町の麹屋吉兵衛の娘お花はこの振袖に心を引かれ、両親にねだって買ってもらいましたが、お花はそれ以来病気になり、明暦2年の1月16日に、おきくと同じ16歳で亡くなってしまいました。
 振袖は再び古着屋の手を経て、麻布の質屋伊勢屋五兵衛の娘おたつの手に渡りました。おたつも、たった一度振袖に手を通しただけで、明暦3年1月16日におきくお花と同じ16歳の短い花の命を惜しむように死んでしまいました。おたつの葬式の日、たまたま娘の法要に来ていた十右衛門夫婦と吉兵衛夫婦は、棺に掛けてある振袖を見て愕然とし、不思議な因縁に恐ろしくなりました。
 三家は事の次第を和尚に打ち明け、供養をして振袖を焼き払うことにしました。その日が明暦3(1657)年1月18日だったのです。和尚が読経しながら因縁のある振袖を火の中に投げ込んだその瞬間、突如として一陣の怪風が起こり、火のついた振袖は火の粉を散らしながら舞い上がり、本堂に燃え移り、それが燃え広がって大火になったのです」

 以上が、明暦の大火を振袖火事と俗称するいわれです。
(本稿の内容は、「武江年表」及び「むさしあぶみ」の記述をもとにして書いています。)



戻る