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なまずと地震

 江戸は災害の多い町でした。富士山の噴火(1707年)、寛保の大水害(1742年)、安政の大地震(1855年)、江戸大風(1856年)などはその代表的なものでしょう。
特に地震は、火事に次いで人々が恐れたものでした。

安政(あんせい)の大地震
 1855年(安政2年)10月2日午後10時ごろ。震源地は現在の亀有と亀戸の線上あたりといわれています。
マグニチュード6.9の直下型の大地震で、余震は29日まで続きました。最も被害が大きかったのは、地盤の弱い上野、浅草、本所、深川あたり。
地震発生とともに30か所以上から出火しましたが、さいわい風が弱かったため、火事はそれほど大きくはなりませんでした。死者1万人以上、倒壊家屋1万4000戸以上、消失家屋多数をだした大地震でした。


安政の大地震と火事の模様が描かれた瓦版

瓦版(かわらばん)
 江戸時代に登場した新聞です。江戸や全国のニュースをすばやく人々に知らせました。火事や地震など、災害のニュースは、瓦版でよく取り上げられた話題です。
 最初に瓦版が発行されたのは1615年、大阪落城のときですが、その後、八百屋お七の火事、赤穂浪士の討ち入り、大火や水害、黒船来航など、さまざまな事件や災害、うわさ話などがのった瓦版は大いに売れました。安政の大地震のときも、約600種類もの瓦版が発行されたということです。
 「瓦版」という名は、瓦をつくる粘土に字や絵を彫り、それを焼いて版にしたからついたといわれていますが、実際には木に彫ったものが多く残っています。当時は内容をおもしろおかしく読み上げながら売ったので、「読売」ともよばれていました。


地震を起こすなまずを大きな石で押さえつけている模様を描いた瓦版

なまず絵の流行
 地震は地底にいる大きななまずが起こすものだから、そのなまずを鹿島神社(茨城県)の要石(かなめいし)で押さえつけようという信仰は古くからありました。また、なまずは日本民謡のなかでは「物いう魚」で、災害が起こる前に人間に警告を発するといわれていました。安政の大地震の前にもなまずが騒いだという記録があります。
 このように、なまずは地震と関係の深いものと考えられていましたので、安政の大地震の後、「なまず絵」は地震よけのお守りになりました。また「こんなひどい災害が起こるのは政治が悪いからだ、世の中すべてを新しく変えよう」という世直しの考えが生まれ、「地震をきっかけになまずが世直しをしてくれる」という願いを込めて「なまず絵」が売り出され、大流行しました。


なまずが世直しをしてくれるという
町人の期待が込められた瓦版