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江戸三大大火

 江戸の町には全国から人が集まり、元禄(げんろく)時代(1688〜1704年)には80万人、享保年間(1716〜36年)には130万人と、どんどん人口が増えていました。
特に町人の住む下町(日本橋、京橋、神田あたり)は人口密度が高く、表通りには商店が並び、路地裏にも長屋がびっしり建っていました。そのころの家はほとんど木造でしたし、電気やガスの代わりに火を使っていたので、火事が起こりやすく、いったん火がつくとどんどん燃え広がりました。特に冬は、空気が乾燥していて風も強いので大火が起こりました。
 江戸時代264年の間に、なんと100回以上もの大火があったという記録が残っています。特に日本橋、京橋などは2〜3年に一度は大火にあい、街道の出発点として有名な日本橋は10回も焼け落ちたそうです。

明暦(めいれき)の大火
 1657年(明暦3年)1月18日、本郷5丁目(現在の文京区本郷)の本妙寺から出火。
火は2日間燃えつづけ、江戸のほとんどを焼きつくしました。10万人以上の死者がでたということです。同じ振袖を着た娘が3人も続けて病死したので、その振袖を焼こうとしたら、火のついた振袖が舞い上がって寺に燃え移ったので「振袖火事」ともいわれています。
 この火事の後、幕府は「定火消」という消防組織をつくり、さまざまな防火対策をとりました。火が燃え広がるのを防ぐために町のところどころに火除地(空き地)や火除土手をつくり、道の幅も広くしました。商店などは燃えにくい土蔵造りにすることをすすめ、町には火の見やぐらをつくり、ところどころに防火用水を置くようにしました。

目黒行人坂(ぎょうにんざか)大火
 1772年(明和9年)2月29日、目黒行人坂(現在の目黒区下目黒1丁目付近)の大円寺から出火。
麻布から江戸城周辺の武家屋敷を焼きつくし、さらに神田、千住方面にまで広がりました。死者約1万5000人。
 火事の原因は坊さんの放火によるもので、犯人は「鬼平犯科帳(おにへいはんかちょう)」で有名な火付盗賊改役(ひつけとうぞくあらためやく)長谷川平蔵に捕らえられ、火あぶりの刑になりました。


目黒行人坂火事絵 火事の状況と町火消が活躍している模様

丙寅(ひのえとら)の大火
 1806年(文化3年・丙寅の年)3月4日、芝・車町(現在の港区高輪2丁目付近)の材木屋付近から出火。
 おりからの激しい南風にあおられ、たちまち燃え広がり、京橋、日本橋のほとんどを焼きつくし、神田、浅草まで広がり、江戸の下町530町を焼く大火となりました。
死者約1200人。この大火で焼け出された人を救うため、幕府は御救小屋(おすくいごや)を建て、多数の人が仮の宿と食事をすることができたのです。


風俗画報 御救小屋 
火事により被災した住民に対する援助の模様