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東京消防庁ライブラリー消防雑学辞典
消防雑学事典
望楼のことあれこれ

 昭和40年代に入ると、煙を出して走る蒸気機関車がSLファンに惜しまれながら次々と姿を消していきました。東京では、昭和43(1968)年9月に国電(現在のJR)赤羽線(現在の埼京線)を走ったのが最後でした。それ以来、東京の消防職員たちは“逃げる火事”から解放されたのです。
 逃げる火事の正体は、蒸気機関車が出す煙だったのですが、望楼(ぼうろう)勤務中に、視界の中に突然黒煙が飛びこんでくると、思わず指令電話(火事を本部に知らせる直通電話)に手がのびて、受話器を取り上げ、とどのつまりにその正体を知って、受話器に平身低頭し冷や汗を流したものでした。特に、常磐線が通る荒川や金町、京浜東北線が通る品川などの各消防署に勤務した消防職員は、必ずといってよいほどこのような経験をしたものです。
 望楼は元来、火の見櫓(やぐら)とよばれていましたが、慶安3(1650)年に定火消(じょうびけし)が組織されたとき、火消屋敷に建てられたのがはじまりとされています。この火の見櫓の高さは約9メートル、外囲の蔀(しとみ)は素木生渋塗でした。定火消屋敷以外の大名屋敷や、町の木戸木戸にも火の見櫓が建てられましたが、これらはすべて黒塗りで、高さも定火消のものより低くされていました。火の見櫓を建てるにも、八万石以上の大名でなければ許されないとか、定火消以外の火の見櫓では、江戸城に面した火の見の部分は、板で塞いで見えないようにするとか、町方の火の見櫓の脚は板で囲ってはならないなどいろいろな制限がありました。

江戸時代の火の見櫓

江戸時代の火の見櫓  定火消の櫓には大きな太鼓と半鐘が設けられ、常に2人の見張番が監視していましたが、大名火消や町火消の櫓には、見張番を置かず、櫓に板木(ばんぎ)や半鐘が下げられているだけでした。もっとも、この半鐘などを使うのにも厳しい制限があり、定火消が太鼓を鳴らさない限り、他の櫓で半鐘を叩くことは許されませんでした。
 明治14(1881)年、海軍省が雇った英国人ゼー・エム・ゼームスが、「各区コトニ望火楼ヲ設ケ・・・云々」という『望火楼の設置に関する建白書』を東京府知事に提出しましたので、さっそく明治17年から20年代にかけて14の火の見櫓や火の見梯子が、警視庁消防署(現在の東京消防庁本庁の前身)や消防分署(現在の消防署の前身)などに建てられました。消防署や消防分署に設けられた櫓には屋根が付いていましたが、各消防派出所(現在の出張所)のものには屋根がありませんでした。この櫓で30分交替の勤務が行われたのですが、火災を発見したときは楼上から、舎内に通ずる銅線を引いて警鈴を打ち鳴らし、署員に火災発生を知らせたのです。

ビルの谷間に埋もれた望楼(←部分が望楼)
ビルの谷間に埋もれた望楼(←部分が望楼)
 火の見櫓の名称が望楼と改められたのは大正時代に入ってからのようです。望楼に、初めて風速計が設置されたのが大正5(1916)年5月のことで、当時、有楽町にあった警視庁の本部庁舎の望楼にロビンソン風力計を取り付け、それまで火災の都度、東京気象台に風位風速を問い合わせていた手間を省いたのです。
 空襲が激しくなった昭和18(1943)年には、爆撃による望楼破損の被害を軽減するため、回廊の外側全部に、爆風よけの板を張りめぐらしたこともありました。昭和30年ころからの望楼は、それまでの鉄塔式外階段のものから、塔屋式や煙突式の内階段に変わってきました。
 このような変遷をたどってきた望楼ですが、建築物の高層化が進み、望楼からの展望がさえぎられるようになってきたことや、一般家庭にも電話が普及したことにより、火災のほとんどが電話で通報されるようになったことなどから、望楼運用の主目的である火災の覚知(発見)機能が著しく低下してしまったため、東京消防庁では、昭和48(1973)年6月1日からすべての望楼の運用を休止しました。
 ちなみに、望楼による火災の発見率は昭和28(1953)年には11.8パーセントあったものが、昭和38(1963)年には3.3パーセント、昭和44(1969)年には2パーセントとなり、全面休止となった年の前年の昭和47(1972)年には、わずかに0.26パーセントと落ち込んでしまったのです。
 ただし、こうした望楼の運用休止は、平常時の運用を休止したもので、異常気象時や震災時および大規模な電話回線断線時などには、いつでも運用再開ができる状態が保たれています。




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