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東京消防庁ライブラリー消防雑学辞典

このページは、新 消防雑学事典 二訂版(平成13年2月28日(財)東京連合防火協会発行)を引用しています。
最新の情報ではありませんので、あらかじめご了承ください。


消防雑学事典
街頭から姿を消した火災報知機

モールス(米)が有線電信機を発明したのは1835年のことですが、それは火災の通報手段にも大きな変革をもたらしました。
1847年、モールスの有線電信機を改良した火災報知機が、ボストンの医師チャニングとファマー教授との共同で開発され、1852年にアメリカで最初の火災報知機として、ボストンの街頭に登場しました。

さらに1859年には、チャニング博士らから特許を買いとったゲームウェルが、ゲームウェル火災報知電信会社を設立して、火災報知機の改良と普及につとめました。そのためアメリカでは、ゲームウェルといえば火災報知機の代名詞とさえいわれました。 ヨーロッパでも、モールス電信機を応用した火災報知機が、ドイツのシーメンスによって1849年に作られています。

このシーメンスの火災報知機は、街頭にある発信機を操作すると、消防署の受信機にモールス符号が打ち出され、その符号で火災の場所が分かる仕組みになっているものでした。 やがて改良が加えられたシーメンスの火災報知機は、ドイツ各地はもちろん、アムステルダムやストックホルムでも採用されました。

わが国でもモールスの有線電信を、災害時の通信に利用することになり、東京では明治21(1888)年に予算化が認められました。
この年の11月末から工事が開始され、明治24(1891)年暮れにすべての工事が完了し、市内の消防分署(現在の消防署の前身)、警察署およびその派出所などで運用が開始されました。

もっともこれは非常報知機と呼ばれたもので、火災ばかりでなく犯罪の通報などにも利用され、もっぱら内部連絡用でした。 つまり、市民が災害を知らせるものではなかったのです。

市民が使える公衆用火災報知機が東京に登場したのは、大正9(1920)年4月のことでした。
第1号の火災報知機は、日本橋の三越前に設けられ、これと同時に24基が日本橋地区に設置されました。

街頭に設置された火災報知機
街頭に設置された火災報知機
火災報知機の開通式
火災報知機の開通式

火災報知機の国産化は、明治の末ごろから検討されていましたが、高価な工事費と少ない予算とのからみがあって、なかなか実現されませんでした。
警視庁で報知機設置の推進にあたっていた原田九郎技師は、より低額な報知機を開発するために、当時、沖電気の専務取締役であった三好盛晴技師らに協力を要請しました。

三好技師は従来から使われていた非常報知機を参考にして、低額で作れる独自の火災報知機を考案し、大正3(1914)年にMM式(三好技師の頭文字を取って名付けた)火災報知機として特許をとりました。

こうして火災報知機の国産化はスタートを切り、大正7(1918)年の4月には、東京報知機株式会社を設立したのです。この会社で製作された最初の火災報知機が、国産第1号となって三越前に設置されました。
火災報知機の効果が著しいことが分かると、一般の会社なども自衛用の火災報知機を設置するようになり、その第1号が日本銀行本店に、第2号が三菱銀行本店にそれぞれ設置されたのです。

このようにして、公衆用火災報知機が大いにもてはやされましたが、その一方では電話が普及してきたため、それまで内部通信用に使われていた符号式の非常報知機は、消防電話に切り換えられることになり、ついに大正10(1921)年9月にはすべて廃止となりました。

また、大阪においても火災報知機は、大正の初期から試験的に運用されており、東京に初めて設置された大正9(1920)年には、すでに60基が設置されていました。ここでも報知機の改良が検討され、大正14(1925)年には大阪府警察部の松本脩一技師によって、改良型の松本式火災報知機が大阪を中心として登場しました。

空襲で壊滅的な打撃を受けた火災報知機ですが、昭和25(1950)年には、東京都議会で火災報知機増強に関する決議が採択され、復旧に全力が注がれました。

昭和41(1966)年には160の受信機と、公衆用、自衛用を合わせて11,000余基の火災報知機が、都内一円の火災警戒に当たっていましたが、その後一般家庭への電話の普及に伴って、火災報知器の利用率は低下の一途をたどる一方で、いたずら通報が大幅に増えたことなどから、東京では昭和47(1972)年から廃止することとなり、昭和49(1974)年には公衆用火災報知機は全廃となったのです。



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