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東京消防庁ライブラリー消防雑学辞典

このページは、新 消防雑学事典 二訂版(平成13年2月28日(財)東京連合防火協会発行)を引用しています。
最新の情報ではありませんので、あらかじめご了承ください。


消防雑学事典
?火災原因の上位はたばこ

mark 東京消防庁管内の火災原因の上位は、昭和51(1976)年まで「たばこ」が第一位でしたが、昭和52(1977)年から「放火・放火の疑い」が第一位となり、「たばこ」は第二位となって、その後も第二位を続けています。

1492年にコロンブスによってアメリカ新大陸が発見される以前に、アメリカ大陸の原住民であるアメリカインディアンは、ミシシッピー川両岸で、トバッコに詰める葉の栽培をしていました。 植物の名は、ニコティアナ・タバクムやニコティアナ・ルスティカというもので、ナス科に属し、ブラジルやメキシコを原産地とするものでした。

トバッコとは、インディアン語でパイプあるいはチューブを意味する言葉ですが、スペイン人によって誤って伝えられてtobaccoタバコと発音され、それがやがて植物の名を意味するようになったということです(アルフレッド・H・ダンヒル『タバコ紳士』より)。

たばこが日本へ初めて伝わったのは、
 ・ 天文18(1549)年、フランシスコ・ザビエルが、日本に渡来したときに始まる。
 ・ 天正年間(1573〜92)に、ポルトガル人によって伝えられた(『落穂集』『めざまし草』『和漢三才図会』など)。
 ・ 文禄4(1595)年に、薩摩藩主島津侯が、ポルトガル人から種子を手に入れた。(コルティ『たばこの歴史』)
 ・ 慶長10(1605)年ごろ、南蛮人が種を持ってきて長崎で栽培した。(『長崎夜話草』『近代世事談』など)
たばこ火災防止のポスター
たばこ火災防止のポスター
などのいろいろな説があって、確かなことは分かりません。

しかし、慶長年間(1596〜1615)には、すでに江戸でも愛好者が増えて、慶長11(1606)年1月7日には、神田観世太夫の能楽堂から出火した火災も、たばこの火が原因ではないかといわれています。

幕府は、火災防止のためばかりでなく、きせるやたばこ入れなどの喫煙具がぜいたくになってきたので、これをいましめるねらいもあって、慶長14(1609)年以降、たびたび喫煙禁止令を出しました。
大阪夏の陣のあった元和元(1615)年の禁止令による処罰はきわめて厳しく、たばこ栽培者からは土地を没収すると定めており、特に島津藩では違反者を死刑に処したほどでした。それでもなお「きかぬもの、たばこ法度に銭法度」といわれるほど、内緒で吸うものがあったようです。

このたばこ禁止令も、元禄(1688〜1704)、宝永(1704〜11)のころには緩和されたのか、山城、丹波、伊賀、肥前がたばこの特産地となりました。
しかし、喫煙については相変わらず厳しく、大阪では「歩きたばこやくわえぎせるでの労働を禁止」したり、浮浪者は「火道具を所持して、さきざきまでたばこをのみません」という証文を名主にあてて出さなければならないほどの制限がありました。

初めて国産の紙巻たばこがお目見えしたのは、明治2(1869)年で、東京麹町の土田安五郎がつくったといわれています(明治5年ともいう)。 明治9(1876)年にはたばこ税が課せられ、明治37(1904)年に至って、たばこの製造専売が実施されました。未成年者喫煙禁止法が公布されたのは、明治23(1890)年のことです。

「たばこは動くアクセサリー」といわれたこともあります。一方、「今捨てたたばこの温度は700度」というほどの危険性を持っています。



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