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東京消防庁ライブラリー消防雑学辞典

このページは、新 消防雑学事典 二訂版(平成13年2月28日(財)東京連合防火協会発行)を引用しています。
最新の情報ではありませんので、あらかじめご了承ください。


消防雑学事典
?コレラで始まった両国花火

東京両国橋川開大花之図(永島春暁画)
東京両国橋川開大花之図(永島春暁画)
mark 江戸における花火は、慶長18(1613)年8月3日、徳川家康が見たのが初めてのようです。

花火はすでに天正年間(1573〜92)には日本に伝来してきていたといわれ(一説には天文10年鉄砲と共に伝来したともいう)、この上覧花火を契機に江戸で花火が流行し始めました。やがて流行は極度に達しましたが、花火は火災の危険があったり、砲声とまぎらわしい音を出したりするので、幕府は慶安元(1648)年以来、しばしば「町中に於て、花火立て申すまじく候、但し、大川筋、海岸の分は苦しからず候」といった町触れを出したりしました。

一方、花火制限令で治まらないのが江戸っ子の腹の虫。当時、御浜御殿のノロシ方をしていた弥兵衛が享保2(1717)年5月28日の水神祭りの夜、余興に花火を打ち上げたいと願い出ました。どうしたことかこの申出が許可され、盛大な打ち上げ花火大会が行われましたので、江戸っ子は、大いに気炎をあげたということです。

両国の川開きに花火がつきものとなったのは、このときに始まるとする説と、享保17(1732)年は大飢饉となり、加えてコレラがはやり、多くの死者が出たこともあって、この霊を慰めるため隅田川沿いの水茶屋が川施餓鬼を、翌18年5月28日の川開きの日に行い、このとき花火を打ち上げたことにちなんだものとする説があります。

これらのことを契機として始まった両国の花火は、江戸名物、東京名物として、昭和36(1961)年に交通事情等により一時期廃止されるまでの間、連綿と続いていました。
なお、両国の花火は、都民の再開の要望に応えて、昭和53(1978)年7月29日、17年ぶりに隅田川花火大会と名称を変えて復活し、現在に至っています。
夏の風物詩の花火大会を裏で支えているのが、消防特別警戒です。消防特別警戒の目的は、多くの見物人が集まることから、万一の事故によるけがや急病人に備えるとともに、花火の火の粉による火災の警戒に当たっています。



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