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東京消防庁ライブラリー消防雑学辞典
消防雑学事典
?戦場から送られた火の用心

mark一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」これは、徳川家康の家臣であった本多作左衛門重次が、戦場から妻に送った手紙文として知られ、簡潔にして要を得たこの文は、手紙文の手本として今日でもよく紹介されています。

本多作左衛門重次の菩提寺(取手市)にある碑
本多作左衛門重次の菩提寺(取手市)にある碑

 この手紙を解読しますと、この時代は、今日のように消防組織や消防ポンプ車などが整備されている時代と異なり、必要以上と思われるほど、火の取扱いについて注意を払っていることが分かります。
 お仙とは、重次の長男仙千代のことで、重次が40歳を過ぎたときに生まれた大事な跡取りのため、大変気にかけていました。
 また馬は、戦には欠かせないもので、時には人の命より大事にしていました。以上のことからして、夫の留守を気遣った手紙と思われます。
 この手紙は、本多作左衛門重次が、小牧、長久手の戦い(天正12年、尾張国(愛知県)の小牧・長久手を中心として、豊臣秀吉と織田信雄・徳川家康の連合軍とのあいだで行われた戦い)のときに、国元の妻に送った手紙であるという説がありますが、これは誤りのようで、どうも長篠の戦いのときのように思われます。
 そのキーワードは、「お仙泣かすな」にあります。お仙は、元亀3(1572)年に浜松で生まれ、重次が、長篠の戦い(天正3年三河国長篠(愛知県南設楽郡鳳来町)を中心に行われた武田勝頼と徳川家康・織田信長の連合軍との戦い)に参戦したのは、お仙が3歳のときでした。
 このことから「お仙泣かすな」の部分の意味が理解できるものと思います。仮に、小牧・長久手の戦いのときとしますと、お仙は12歳になっているので「お仙泣かすな」という言葉が当てはまりません。
 お仙は後に、丸岡城(福井県丸岡町にあり、天守閣は、国の重要文化財に指定されている)の城主になりました。
 火の用心という言葉が、町触れの中でいつごろから使われはじめたか、はっきりとは分かりませんが、慶安元(1648)年に出されたお触れの中に、次のようなものがあります。
 「町中の者は交代で夜番すべし。月行事はときどき夜番を見回るべし。店子たちは各々火の用心を厳重にすべし
 こうしてみますと、本多作左衛門重次が「火の用心」という言葉を使ったのは、一般に使われだしたときより大分前のことで、彼が第一号使用者ということになるかもしれません。

本多作左衛門重次の肖像画
本多作左衛門重次の肖像画  ここで、本多作左衛門重次について、少し触れておきます。本多作左衛門重次は、享禄2(1529)年三河の国に生まれ、同国の奉行となったとき、余りにも厳格な奉行であったために、「鬼作左」の異称が付けられました。
 数々の戦に出陣して手柄を立てましたが、後に豊臣秀吉の忌諱に触れ、上総の国に蟄居を命じられた後、慶長元(1596)年、下総国の井野でその生涯を閉じました。享年68歳でした。
 本多作左衛門重次の菩提寺は、茨城県取手市青柳一ノ一ノ五七の「本願寺」で、寺宝として、重次の肖像画・家紋・旗印・兜・馬具・徳川家康から拝領した金団扇などが保存管理されています。
 丸岡城の一画に、「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の石碑が建っていますが、丸岡町はこの碑文にあやかって、平成5年に、「日本一短い母への手紙」を公募して話題となりました。
 「火の用心」という言葉は、火災予防の合言葉として現在も広く使われており、「火之要鎮」や「火之用心」などと言葉もじりをしながらも、今日に至っています。
 防火標語は、それぞれの時代の社会的背景を反映して生まれてきています。明治時代に馬引き蒸気ポンプが登場すると「ポンプ百より用心一つ」という標語ができ、大正時代の関東大地震を経験した後には「不意の地震にふだんの備え」、「火事だ地震だ まず消せ火種」という標語が登場しました。昭和時代に入っての戦時中は「火事は身の損、国の損」、「火の用心 だれにもできる御奉公」というものが、戦後の物資欠乏時代になると「火の手に渡すな衣食住」という当時の社会情勢そのままの標語が生まれました。
 これらの防火標語は、それぞれの消防機関が独創性を凝らして作っていますが、そのほかに全国的に統一した標語が必要だという声が高まってきたため、統一標語を作るようになりました。標語の決定に当たっては、昭和41(1966)年度の標語から自治省消防庁と(社)日本損害保険協会が共催して、火災予防思想をより広く普及させるために、一般から募集することになり現在に至っています。
 なお、東京における「火災予防運動標語の変遷」もご参照ください。



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