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東京消防庁ライブラリー消防雑学辞典
消防雑学事典
?文学作品にみる災害

mark  数多くの文学作品の中には、実際に起こった火災・暴風雨・空襲などの災害を、作品の軸にしたものがあります。これらのものの中から、火災のことなどを記した主要な場面を小説から抜粋し、また、作品に関わる災害の概要などを紹介します。

●『お情け火盗改め』 笹沢左保著
 この小説は、表題『江戸大火・女人地獄』の中に掲載されているもので、明和9(1772)年に発生した「目黒行人坂の火災」を素材としたもので、焼損面積においては明暦の大火(明暦3年)には及びませんが、目黒から千住まで細長く燃え拡がり、延焼距離としては、江戸時代から現在までで最も長い火災で、江戸三大大火の一つです(火災の概要は「火付盗賊改・鬼の平蔵」参照)。
 著者は、表題の小説執筆の取材で、昭和48(1973)年の夏、東京消防庁旧本部庁舎(永田町庁舎)の図書資料室を訪れています。
 火災に関わる主要な場面
 「明和9年の、閏2月29日だった。この日は朝から、南西の風がかなり強く吹いていた。正午になって、目黒行人坂の大円寺から白い煙が立ちのぼるのを、近くに住む人々が見ている。
 人の出入りがない白昼の大円寺だったし、白い煙を見かけた者もそれを火事とは思わなかった。ところが量が増大した白い煙が、突如として黒煙に変わったのだった。人々が火事だと気がついたときには、もう大円寺の本堂が紅蓮の炎を吹き上げていた。
 強い南西の風に煽られて、火の手はたちまち広がった。乱舞する炎と渦巻く黒煙が、さらに激しい風を呼び込んだ。轟音が地鳴りのように、響き渡った。みるみるうちに大円寺とその近辺は、巨大な火柱と化した。
 目黒は江戸の、南西のはずれに位置している。そこから出火して強い風に煽られれば、当然どういう結果になるか誰にでもわかることだった。火の手は江戸の南西の端から、反対方向へと広がるはずである。
 江戸は端から端へと、焼かれることになる。そうした延焼は、江戸全焼の可能性も秘めている。未曾有の大火になると、江戸の住民たちは判断した。そのために何よりもまず、避難することを考えなければならなかった。
(中略)
 江戸の人々は一昼夜、猛火に追われて逃げ惑い、その疲労から気力も失せて焼け死ぬ者が目立ち、女と子ども、老人に多くの犠牲を見たと言われている。
 江戸三大火事の一つであり、明暦の大火に次ぐこの大災害の原因は放火によるものと判明した。出火した目黒行人坂の大円寺を調べた結果、火付けということがはっきりしたのである。
 出火場所は大円寺の本堂の床下であり、そんなところから自然発火は考えられないことであった。火の気もない床下だし、不注意による単純な失火ということでもあり得なかった。
 それに大円寺の清秀和尚の証言に重大な意味があったのだ。その証言によって、真秀こと長五郎を首謀者とする一味7人の火付けであり、火事場泥棒が目的だったという判断が決定づけられた。
 火盗改め間部主膳は直ちに配下の召捕り方同心と回り方同心を招集して、次の7名を早急に捕えるように厳しく指示した。
  修行僧真秀こと長五郎
  浪人大田原某こと半助
  反歯の大次郎
  権次郎
  股引(異名)
  常陸(異名)
  伊勢(異名)
 以上の7人はいずれも無宿で、強盗、窃盗、強姦、殺人、放火、賭博、傷害の容疑で手配を受けたのであった。
 召捕り方同心は、3月2日から7人の男の探索のために八方へ散った。見渡す限り灰燼に帰して、大火の爪跡も生々しい江戸市中を歩き回っての探索は、心が荒ぶだけで容易なことではなかった。
 それに、召捕り方同心にしても大火の罹災者であった。家族を失った同心もいる。しかし、妻子の焼死体を捜す暇もなく、霊前に線香を立てる余裕さえ与えられていなかった。深い悲しみを胸のうちに秘めて、同心たちは江戸中を駆けずり回らなければならないのである・・・」
 火災後の応急対策
 大火後、老中田沼意次は、貨幣を改鋳し、株仲間の公認、開拓など積極政策をとり、町人に対して勤倹を奨励しました。意次の政策は、疲労困憊した江戸町人の生活に活力を与えましたが、役人は権力をかさに横暴をきわめ、贈収賄をほしいままに行い、後日、意次は失脚してしまいました。
 明和9年という年は大火だけでなく、再三にわたり風水害に見舞われ、災難続きの年でした。このため明和9年をもじって「迷惑な年」などともいわれ、この年の暮には「安永」と改元されました。

●『炎々の記』 河野多恵子著
 この作品に書かれている隣家の火事、列車火災(列車安芸号火災・昭和42年11月15日)、空襲・噴火(三原山噴火・昭和61年11月22日)、ビル火災などは、たぶん著者が原体験を通して書かれたものと思われます。
 推理のもとは第一に、本書の主人公「瑞子」が、丙年の1926年生まれであるとの記述があること(河野多恵子氏が大正15年の丙年の生まれであること)。第二に、泉鏡花の小品『火の用心の事』を引用して、鏡花は生家が焼失するなど何回となく火難に遭っていると述べていること。第三に、丙年生まれの主人公「瑞子の名は、何回となく火災に見舞われた祖父が、孫娘の行末に何よりも火難をまぬがれることを願って、火よりも強い水に因んで、瑞子と名付けたそうだ」という記述があること等からです。
 −火災に関わる主要な場面
 この作品の中には、数多くの火災のことなどが書かれているので、筆者が副題を付けてみました。
瑞子の東京消防庁への間違い電話
 「<はい、東京消防庁です! 火事ですか? 救急ですか?>と男の強い声が言う。瑞子は驚き電話を切った。(中略)
 あちこちの予報番号をやたら押すものだから、違う番号に触れたようだ。
 しかし、今度はテープならぬ、生身の男の応答である。しかも失策で繋がった先が消防庁なのであった。ところが瑞子が驚いたのは、それだけではなかった。<火事ですか? 救急ですか?>と訊くのに黙して受話器を戻し、変な気持で電話機を見下ろすと、その電話機が鳴りだしたのだ。普通の呼出し音とはちがうような、けたたましさで鳴り続ける。彼女は怖々、受話器を取った。<東京消防庁です。どうしました?>消防庁の電話が、相手の番号を判明する仕組になっているとは、瑞子は知らなかった。<いえ、あの・・・>とうろたえる。<かけたでしょう? どうしました。間違いですか?>彼女は漸く<はい>と答えて、謝りはじめる。
(中略)
 とうとう消防庁まで迷惑をかけてしまった。・・・幸い消防車も救急車も呼ぶようなことは、一度も起こさずすんできたけれども、こんな失策をするような自分は、実際の火が出たとき、うろたえて消防庁の電話番号を思いだせないかもしれなかった・・・」
 この一件で、瑞子の天気予報中毒は、絶たれてしまったようだ。
三原山の噴火
 「・・・瑞子が早目に会場に出かけると、あの離島の火山で高い噴煙があがっていると、ニュースが伝えたという。自分たちが港へ向って歩き出した時には、山はもう蠢動しはじめていたのかもしれない。昨日に帰京しておいて本当によかったと彼女はさらに思った。
(中略)
 3・4日目頃になると、溶岩の流出が起こってきた。テレビの画面は、真っ赤になることは少なくなり、黒々とした夜の山肌を三方向に這い下る長短の赤い溶岩の流れが鮮明に映しだされる。その最も長くて逞しいのが這って行っているほうの山裾に、瑞子たちの小屋がある。その地域から上には、もう民家はない。
 避難命令が発せられ、全島民の本土への避難がはじまった。最も長く逞しかった溶岩流は、太さと速さを加えて、先端は市街地まで500メートルのところへ達しているという。(中略)
 溶岩流は、とうとう民家まで80メートルのところまできたという。テレビはその先端を繰り返し見せた・・・」
 伊豆大島三原山噴火災害の概要
 昭和61(1986)年11月15日、17時25分、伊豆大島三原山は12年ぶりに噴火(第一次)し、6日後の21日16時15分には、「昭和61(1986)年伊豆大島噴火」と命名されるに至った大規模な噴火(第二次)が発生し、同日22時50分には、全島民1万余が、島外に避難するという未曾有の事態となりました。
 東京消防庁では、同年11月21日18時00分、「東京消防庁伊豆大島噴火災害支援対策本部」を設置し、溶岩流冷却活動、危険物排除活動、水利調査などの支援活動を、同年12月20日まで実施しています。

●『金閣寺』三島由紀夫著
 この小説は、金閣寺(舎利殿)への放火事件(昭和25年7月2日発災)の犯人(大谷大学中国語学科徒弟僧)をモデルに、美にとりつかれた青年の悲劇を描いた、三島由紀夫の代表作の一つです。
 火災に関わる主要な場面
 「・・・金閣には戦後、最新式の火災自動警報器が取付られていた。金閣の内部が一定の温度に達すると、警報が鹿苑寺事務室の廊下のところで鳴りひびく仕掛になっている。6月29日の晩、この警報器が故障を起した。故障を発見したのは、案内人の老人である。老人が執事寮でその報告をするのを、たまたま庫裏にいて私は聴いた。私は天の励ましの声を聴いたと思った。
 しかし、翌30日の朝、副司さんは器械を納入した工場へ電話をかけて修繕をたのんだ。人のよい案内人はわざわざ私にそれを告げた。私は唇を噛んだ。昨夜こそ決行の機会であったのに、その又とない機会を逸したのである。
 夕刻になって修理工がやってきた。われわれは物珍らしげな顔を並べて、修理のありさまを見物した。修繕は永くかかり、工員は首をかしげるばかりで、見物も一人去り二人去りした。ほどほどに私もその場を立去った。あとは修理が成って、工員が試みに鳴らすベルが、音高く寺内にひびきわたるのを、私にとっては絶望のその合図を待てばよいのである。・・・私は待った。金閣には潮のように夜が押し上げ、修理のための小さな灯がまたたいていた。警報は鳴らなかった。匙を投げた工員は明日又来ると言い置いて帰った。
(中略)
 その日が来た。昭和25年の7月1日である。前にも言ったように、火災警報機は今日中に直る見込はない。そのことは午後6時に確かになった。案内の老人がもう一度催促の電話をかけた。申訳ないが今日は多忙で行けないから、明日は必ず行くと工員が答えたのである。(中略)
 胸は陽気に鼓動を打ち、濡れた手は微かに慄えていた。あまつさえ燐寸は湿っていた。一本目はつかない。二本目はつきかけて折れた。三本目は風を防いだ私 の指の隙々(ひまひま)を明るませて燃え上った。・・・火は藁の堆積の複雑な影をえがき出し、その明るい枯野の色をうかべて、こまやかに四方へ伝わった。つづいて起る煙のなかに火は身を隠した。しかし思わぬ遠くから、蚊帳のみどりをふくらませて焔がのぼった。あたりが俄かに賑やかになったような気がした。(中略)
 ここからは金閣の形は見えない。渦巻いている煙と、天に冲している火が見えるだけである。木の間をおびただしい火の粉が飛び、金閣の空は金砂子を撒いたようである。
 私は膝を組んで永いことそれを眺めた。
 気がつくと、体のいたるところに火ぶくれや擦り傷があって血が流れていた。手の指にも、さっき戸を叩いたときの怪我とみえて血が滲んでいた。私は遁れた獣のようにその傷口を舐めた・・・」
 火災の概要等
◎火災発生場所
 京都市上京区衣笠金閣町一番地
  臨済宗相国寺派 鹿苑寺(通称・金閣寺)
◎火災発生年月日
 昭和25(1950)年7月2日午前2時30分ごろ
◎火災原因
 大谷大学中国語学科の徒弟僧の放火
◎被害状況
 国宝金閣(舎利殿)362平方メートルと足利義満座像(国宝)、観世音菩薩像(運慶作)、夢想国師像(春日仏師作)等10体の木像等を焼失。
 金閣(舎利殿)は、応永4(1397)年足利義満が創建。三層楼閣こけら葺き檜造りで、明治30(1897)年12月28日国宝建造物に指定され、明治39(1906)年に解体修理しています。
 なお、本火災直後、京都府議会文教委員会は、政府に対し「早急に災害防除費を緊急に計上し、残った国宝について万全の策をとられたい」と要望しています。

消失した金閣寺
消失した金閣寺

●『飢餓海峡』水上 勉著
 この作品は、昭和29(1954)年9月26日に発生した「北海道岩内郡岩内町火災」と「青函連絡洞爺丸遭難事故」を、年月や町名、船舶名、火災原因等を変えて作品の核とした、ミステリアスな長編小説です。
 火災に関わる主要な場面
 「・・・昭和22年。津軽海峡の海上で、あっというまに多数の人命を呑みこんだ層雲丸沈没の大事故を起した10号台風は、9月20日の朝、函館から約120キロほどしかはなれていないこの岩幌の町で、ボヤですんだはずの小さな火事から、全町3分の2までが焼失するという悲惨な大火事を惹き起している。もとより、この種の火事は全国的にいって珍しいことではない。しかし、世間は同日に起きた層雲丸悲惨事の方に気をとられていて、この北の果てのさびれた漁港が一瞬にして火の海と化し、全町の3分の2が罹災したという新聞記事を翌21日の朝読まされて唖然としただけであった。もっとも、この新聞記事も、全国紙ではほんのわずか三面下の隅の方に二段組で報じられたにすぎなかった。層雲丸詳報記事が大半を埋めていたためであろう。
 突発事故は暴風雨下の20日、道南の二つの町を大きく塗りかえていたが、世間はこの岩幌町の火事についてはあまり眼をとめなかったのだ。
 火元は、町の南海岸に沿うた住宅街である。質屋を営む佐々田伝助という家の台所から出ている。9月20日午前8時10分のことである。まだ道南には、その時刻は強風注意報は出ていなかった。しかし、すでに、風は嵐の前兆をみせていて裏日本の海もかなり荒れていた。佐々田質店から火を噴いたボヤは、付近の建てこんだ家々に延焼した。強風は南から吹いていた。炎は北にのび、まもなく、町の中心へ通じる大通りの両側をなめつくした。官庁、銀行などの出先機関、商店などのならぶ街にも延焼し、火勢はさらに段丘になった住宅側にのびた。一瞬の間である。全町3分の2が灰燼に帰した。新聞は、全焼3,450戸、死者39、負傷150と報じた。 台風のすぎたあと、ようやく火は下火になり、午後3時20分に鎮火したが、この灰燼の町をかきわけて、消防団員と警察署員が、まず火元調査にのりだした。佐々田質店の焼け落ちた土蔵と母屋のくすぶっている長押や柱が黒こげの骸をさらしたままつっ立っている中から、この家の主人伝助、ならびに妻りき、息子夫婦の弥助、まつの4人の死体を発見したとき、先ず、4つの死体が、土蔵の入口、母屋の奥の間、台所、玄関と4カ所から別々に発見されたことや、さらに4人とも死んでいて1人も逃げられなかったことなどから不審を抱かせた。(中略)
 この一軒の質屋から出た火は台風のあおりを喰って、町の大半を罹災させたのだった。海風の吹きすさぶ秋の音を聞きながら、人びとは大きな憤怒をおぼえて、無惨な4人の死体をみていた・・・」
 洞爺丸台風
 この台風は、「台風15号」と名付けられていますが、一般的には、青函連絡船「洞爺丸」が転覆して多数の死者が出たことから、「洞爺丸台風」という名称で呼ばれています。
 昭和29年9月26日午後6時39分、暴風雨をついて函館港を出航した「洞爺丸」は港外で転覆し、乗客1,204人中1,054人、乗組員133人中88人の死者、行方不明者を出すという大惨事が発生しました。
 洞爺丸台風による全国の被害は、死者・行方不明者1,698人、傷者1,601人(連絡船の乗客・乗組員を含む)、全半壊家屋3万1676戸、船舶破壊等5,581隻に達しました。
 この洞爺丸遭難事故は、1912(大正元)年4月14日、英国ホワイトスター社の豪華客船タイタニック号(46,328総トン)が、ニューヨークに向かう処女航海中、ニューファンドランド沖で氷山と衝突して、1,513人の犠牲者を出した事故に次ぐ、世界第二の海難事故となりました。
 岩内町の大火
 この火災は、洞爺丸海難事故の発生と日を同じくした午後8時15分ごろ、北海道岩内郡岩内町相生のアパートから出火したもので、暴風に煽られて全町の80パーセントが焼失しました。
 その被害は、焼損面積約32万平方メートル、焼失家屋3,298棟、死者33人、傷者551人という大きな被害でしたが、洞爺丸転覆事故の被害があまりにも大きかったため、どの新聞も申し訳程度にしか報じていませんでした。

洞爺丸台風の被害を報じた朝日新聞
洞爺丸台風の被害を報じた朝日新聞



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