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東京消防庁ライブラリー消防雑学辞典

このページは、新 消防雑学事典 二訂版(平成13年2月28日(財)東京連合防火協会発行)を引用しています。
最新の情報ではありませんので、あらかじめご了承ください。


消防雑学事典
?国会議事堂の火災原因をめぐり宣伝合戦

mark 光源として利用される火のことを灯火といいますが、最初に灯火の材料として用いられたのは木材でした。
木材を束ねてたいまつができ、金属のかごに入れて燃やすとかがり火となります。

油は昔から灯火用として用いられ、日本では煙の少ない植物油が使われていました。
平皿に油を入れ、片すみに芯をのせてそれに点火してあかりとしたのです。

次いで、油が移動に不便なことからろうそくが考案されましたが、この日本のろうそくは、中国からの輸入品が元になっているようです。
石油は、『日本書紀』の天智天皇紀に、越の国から「燃水」を献じたこととして書かれています。
産出地の越前、越後、信濃、佐渡などでは、徳利に石油を入れ、芯を用いて点灯する方法で、原始的な光源として使っていましたが、明治に入って外国からほやのついた本格的な石油ランプが入ってくると、石油灯も一般化し、屋外の照明にも用いられるようになりました。

わが国でガス灯がともされたのは安政4(1857)年で、島津家が試みたのが最初ですが、イギリスではウィリアム・ムルドックが、世界で最初のガス灯を1792(寛政4)年に点灯しています。
明治4(1871)年には大阪造幣局で金銀溶解、貨幣鋳造のためガス製造の設備を設け、その余剰ガスで局外に600余のガス灯を点灯しました。

ガス事業として始まったのは翌5年のことで、横浜の高島嘉右衛門が取り組みました。
その年の10月31日には、本町通りと神奈川県庁の間にガス灯数十基が点灯されたのです。

東京では1年遅れて明治6(1873)年からガス事業が始められ、翌7年も末の12月12日に、85基のガス灯が首都の街を照らしました。京橋と新橋の間のことです。

電気のあかりが日本でともったのは、明治11(1878)年3月25日の中央電信局(本所)開業当日でした。
工業大学校の学生たちが、イギリス人エアトンの指導のもとに、グローブ電池を使ってアーク灯を点じたのです。
これは1808(文化5)年にイギリスのデービーが、最初の電灯であるアーク灯を作ってから70年後のことでした。

ところで、灯火の発展は、火災にいろいろな面で関係しています。

ランプにて三度も五度も家を焼き
又もこりずに石油たく人

上の句は、明治10(1877)年に出版された『馬鹿の番付』のなかにある風刺句です。
また、当時の新聞も「近頃ランプ流行シテ家戸ニ点燈シ人々爰翫ブ、然レドモ其用法ヲ知ラザレバ甚ダ危キモノナリ・・」と警告しています。

そんなときにガス灯が現れ事業化がすすめられたのですが、明治29(1896)年に大阪ガスが申請した認可申請書には、「当市内ニ於テ殆ンド毎夜警鐘ノ声聞カザルナシ、而シテ其原因ヲ探レバ、ソノ七・八ハ石油ヨリ生ズルノ過チナル如シ、之レガ為メ幾万ノ財ヲ焼毀シ甚シキニ至リテハ、生命ヲモ亡失スルニ至ル、瓦斯燈明ニ此ノ憂ヲ除ク事ヲ得ベシ」との『設立願ノ義ニ付追申書』が添えられ、石油ランプよりもガス灯の方が火災予防上安全であるとしています。

明治42(1909)年には、石油ランプが出火原因となった、大阪北区の大火(大阪公設消防誕生のきっかけとなった火災)がありました。
そのため大阪府は「公衆の集合所はもちろん、燃えやすい物を取り扱う所では、ガラス壺のランプの使用を厳禁し、金属製のランプに替えるように」と命令を出したりしました。
電灯会社は、このときとばかり「電灯は風が吹いても消えません。火事の危険もありません。また、ホヤの掃除がいりません」と宣伝につとめました。

一方、電灯の方にも、決定的打撃を与える事件が起こりました。帝国議事堂の火災です。

帝国議事堂炎上之図
帝国議事堂炎上之図(小林清親画)

明治23(1890)年11月27日、第1回帝国議会が開かれましたが、開期中の翌24(1891)年1月20日未明、衆議院政府委員室から出火して貴族院にも延焼し、議事堂を全焼してしまいしました。
出火原因について時の衆議院書記官長は、「衆議院政府委員室の電灯管の熱度暴騰し、為めに発火し他の電管に移って竟に防火の手段なきに及べり」と、漏電による旨を議会に報告するとともに、官報号外をもって公示しました。

時あたかも、電灯が文明開化の波に乗って、華々しくデビューした時期でしたから、直流方式の東京電燈会社と交流方式の大阪電燈会社が優劣論争を戦わせながら、市場獲得に躍起になっていた矢先のことです。
電灯に対する一般人の理解も、ガラス球の中に火を閉じこめた程度のものでしたから、議事堂が漏電から全焼したと聞くと、たちまち点灯休止の申し入れが殺到しました。

待っていましたとばかりに、電灯の罪業を宣伝したのは石油販売会社です。
当時の新聞に「流行物たる電気灯は、実に恐るべき功能を世人に識らしめたり、昨年は大阪に於ては人命を奪い、東京にては、当市の飾物たる鹿鳴館を焼かんとし遂には、今回は我神聖なる帝国議事堂を烏有に帰せしめしのみならず、緊急欠くべからざる議事をも妨げたり、嗚呼悲しむべし」と痛烈な広告を出しています。

せっかく軌道に乗りかけた需要が、一時にドッと減った東京電燈会社は、漏電にあらずと主張して公示の訂正方を求めて、衆議院書記官長を告訴しましたが、敗訴するに至り、矢島作郎社長以下の全役員が引責辞職する結果となりました。

窮地に追い込まれた電灯会社は、東京、大阪が共同防衛体制を整えねばならず、日本電燈協会(現日本電気協会の前身)を明治25(1892)年5月に設立させました。

ところが、この協会設立準備中に、再び帝国議事堂衆議院談話室から出火する事件が起こったのです。
電灯会社は、それこそ肝をつぶす心地でしたが、幸いだんろの火の不始末が出火原因と分かり、胸をなでおろしたのでした。



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