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東京消防庁ライブラリー消防雑学辞典
消防雑学事典
?はたらく消防の写生会

mark  会場に入ると、赤色の塊が目に飛び込んできました。
 画面いっぱいに描かれた消防自動車は子供たちにどんな思いを抱かせたのだろうかと考えてしまいました。
 自分達の暮らしを守ってくれる頼もしい存在であるがために、パスや絵の具が子供たちの体と一体になって動き始めたのでしょうか。「はたらく消防車」には子供たちの意見や驚き、そしてその時感じとったことが表されていました。
 「いろいろなものが付いているんだ。」「うわー大きい。」「消防のおじさんは凄いんだ。」などという声がパスの線や絵の具の色が語っているように感じました。−これは、第50回はたらく消防の写生会の審査員の先生の言葉です。

はたらく消防の写生会
はたらく消防の写生会  この行事には、毎年、多くの児童、生徒が参加して、すばらしい作品を描いてくれていますが、いわゆる行政機関の業務が、学校の授業の中に取り込まれて、消防職員が直接子供たちとふれあいながら行うのは、消防業務のみならず、他の行政機関にあってもあまり例がありません。しかもこの行事は今年(平成12年)で50回目を迎えました。消防出初式のような華やかさはありませんが、しっかりと着実に、子供たちの防火防災の心を育てています。
 今日のはたらく消防の写生会は、昭和26(1951)年6月3日、「消防機械スケッチコンクール」という名称で行われたことに端を発しています。世田谷区の二子玉川の河原に消防車両を並べて、1,535人の少年消防クラブ員を集めて写生会を行ったとの記録が残っています。
 「はたらく・・・」の名称がついたのは、昭和28(1953)年の第3回からです。この時は「はたらく消防のスケッチコンクール」で、この名称は昭和31(1956)年の第6回まで続きました。どのような経緯で「はたらく」ということばをつけたか定かではありません。ただ、「消防機械」というより、「はたらく消防」といった方が、この行事を通して、消防の仕事を理解してもらうという意図が伝わる気がします。

化学機動中隊員を写生する子供たち
化学機動中隊員を写生する子供たち  また、コンクールという表現も変化しました。優秀な作品を募集するということが第一目的であればよいのですが、この行事は、一人でも多くの子供たちに参加してもらい、消防の仕事を理解し、防火防災の心を育てたいというのが目的です。そこで昭和32(1957)年の第7回から今日の「はたらく消防の写生会」という名称になったのです。
 ちなみに、第7回の参加者数は、15,000人で、第1回のときの約10倍です。この回からは、各消防方面本部単位で行うようになりました。
 昭和45(1970)年の第20回には、学校へ消防車両を出向させて写生会を行う、今日のスタイルが確立しました。なお、このときの参加者は116,000人でした。
 さて、昭和56(1981)年の第31回からは、雨天等の気象状況や、校庭の広さ、学校の構造等の関係で写生会ができない学校を考慮して、防火ポスターも募集することにしました。この結果、第31回の参加者数は、写生会165,662人、ポスター25,721人、計191,383人で、この数値は、平成12年の第50回までの間の最多参加者数として、記録に残っています。
 平成元年の第39回からは、消防活動を大きくとらえ、消防行政全体のPRができるように、また、授業外でも、作品作りができるようにと、写生会という形式にとらわれずに、災害現場等、さまざまな業務の様子を思い描いたり、未来の消防をイメージして描いてもらうことにしました。
 平成6年10月18日から10月22日までの間、ファイヤーセーフティ・フロンティア'94−東京国際消防会議・東京国際消防防災展が開催されましたが、この行事にちなみ、この年の第44回は、前記の未来のイメージ図画を、一つの部門として独立させて募集しました。
 このように、写生会は時代とともにその時の社会の動きや消防事情にあわせて変遷はしていますが、第1回から第50回(平成12年)までの参加者数は延べにして、4,758,347人を数えています。作品は、多くの都民に防火防災思想を啓発することを目的として、絵画展に展示したり、広報誌やポスターなどにも活用しています。また、毎年優秀作品を消防博物館、池袋・立川の各防災館や、東京消防庁救急フェア会場などでも展示しました。
 少子化傾向、学校授業の週休二日制の導入など、子供をとりまく社会の状況は、「はたらく消防の写生会」の発足当時とは大きく変化してきましたが、この写生会は、子供の防火防災教育事業として有効な行事です。これからも創意工夫をもって、実施していく必要があります。





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