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東京消防庁浅草消防署消防署の紹介あゆみ

あゆみ

1.浅草に消防署が設置される前

江戸の町は、建物構造が燃えやすく、消火技術が稚拙であったことから大火が多くあった。このため、戦国時代の戦闘行動と同列に、幕府旗本を組織して「定火消」が置かれ、この組織が主として江戸の町の火災に対処していた。その他に、江戸在住の大名が担当した「大名火消」、大岡越前が町衆に組織させた「町火消」が江戸の町の火災に活躍した。

上野と異なり、町家が多かった浅草の町を担当した「町火消」は、8番組「ほ組」10番組「と組」「を組」であった。「を組」には、江戸から明治にかけて名を馳せた町火消10番組組頭「新門辰五郎」がおり、現在でも浅草寺内の鳶の頭として受け継がれている。

江戸から明治に時代が変わると、社会が混乱し社会制度も大きく変遷した。その中で、従来の定火消・大名火消が消滅したことから、新生したばかりの東京の街は「町火消」の人達によって火災から守られることとなった。

2.「町火消」から「消防組」

「5番組」の纏が浅草神社前にそろったところ

その後、明治の市政編成で、東京の町を皇居から順に番号で区割りする形をとり、浅草は第五大区となり、さらにその中を小区に分けた。

ほ組・と組・を組もこの区制の中に組み込まれ、浅草管内は第五大区の消防1番組と消防3番組が担当して活躍した。1番組は元ほ組、3番組は元と組、元を組であり、1番組は浅草橋周辺、3番組は駒形、寿、雷門周辺を担当した。


消防1番組と消防3番組の纏

この時の首都東京の町をボランティア組織として守り抜いた心意気を「纏」に象徴して、今でも「江戸消防記念会」として保存している。

明治とともに、蒸気ポンプの導入など、消防の近代化に拍車がかかっていった。消防も明治の時代の進展とともにさまざまに変遷し、明治13年6月1日に近代的な姿として、内務省警視局に「消防本部」が設置され次第に組織的な姿へと変わっていった。

※写真は、江戸消防記念物の「5番組」の纏が浅草神社前にそろったところ

3.浅草に第5消防署が設置され、浅草の消防署の原型となる

明治14年1月に東京は警視庁内に消防本署が併合され、明治14年6月に都内6ケ所に消防分署が設置される。

この消防分署の設置が近代消防の始まりとなり、消防第1分署(現日本橋消防署)から第6分署(位置的には現本所消防署)まで設けられる。その中の「消防第5分署」が、浅草区浅草猿屋町17番に設置された。

第五消防署

設置当時は、浅草猿屋町警察署と同じ敷地内の一角に位置し、「町火消」の第五大区所属の方々もこの消防署の署員と一緒に活動することとなった。

明治26年に浅草猿屋町警察署は向柳原(現浅草橋五丁目)に移転。明治38年に 消防分署は消防署と名称変更された。

明治41年発行の東京名所図絵には浅草猿屋町の一角にあった第五消防署の写真が掲載され、浅草猿屋町の景況として、17番地は殊に広く、ここに第五消防署があって 火の見櫓があることを紹介している。

この第5消防署が、「浅草の消防署」の原型である。

 

浅草猿屋町17番は、現住所では浅草橋 二丁目26番付近で、区立台東育英小学校付近となる。

その後、この第五消防署の名称は、大正8年3月に下谷区北稲荷町40番に新築移転させた「下谷消防署」に移り「現上野消防署」に名称を引き継ぐ形となった。そのため、残された施設は、消防分署となった。

大震災により消失した浅草区

大正12年9月1日の「関東大震災」は、当時の浅草区の96%を消失させた。

大震災により東京の町は大規模な街区整理がなされ、それまで浅草には400近くの橋が架かっていたと言われていたが、ほとんどの中小河川が埋め立てられ、大通りが整備された。

当時の写真では、浅草寺周辺がかろうじて焼け残り、その他はコンクリート造の小学校等を除いてほぼ消失した。しかし、浅草の街は、この焼け跡の中から蘇り、浅草の歓楽街を始め、多くの人が訪れ賑わう町となって、昭和初期を彩り、文学的や芸能活動の拠点となっていた。

4.浅草消防署の始まり

大震災後の都市改造で町は大きく変貌した。分署又は派出所等で対応していたこの地域も、向柳原に設置された消防署を新たに昭和4年6月4日「第五方面 向柳原消防署」として衣替えして出発した。

このことから、昭和4年6月の向柳原消防署を「浅草消防署」の始まりとしている。当時の場所は、浅草区向柳原二丁目10番に位置し、現浅草橋三丁目10番の浅草消防署浅草橋出張所がある所となる。この地から出発した「浅草消防署」は、以来今日に至るまで地域の消防署として親しまれている。

日本堤(浅草区田町二丁目17番、現千束四丁目1.2番付近「現日本堤消防署」)に昭和5年8月に設けられた「浅草消防署」は、昭和20年3月20日の大空襲により消失、5月28日に向柳原消防署と浅草消防署が統合され、向柳原消防署を「浅草消防署」と呼称し、その署名が現在当消防署名として続いている。

昭和20年6月の「浅草消防署」の組織は、所在地を向柳原町二丁目一番ノ2号とし、日本堤出張所(浅草区日本堤二丁目3)、浅草橋出張所(日本橋区馬喰町四丁目5)、馬道出張所(浅草区馬道一丁目3)の3つの出張所があり、104名の職員とポンプ車8台を有していた。日本橋区の浅草橋出張所が浅草消防署に所属していたのは、昔西両国消防署と呼称していた時からの結びつきで、浅草の指揮下に入っていた。

昭和28年に消防方面本部制度が発足し、「第6方面 浅草消防署」となった。当時の第6方面に所属したのは下谷・浅草・荒川・千住・西新井の5つの消防署である。

昭和32年10月に日本堤に新しい消防署「日本堤消防署」が設置され、管内を二分して分かれ、現在の管轄区域を担当する消防署となった。

5.現在

浅草橋三丁目にあった浅草消防署は、庁舎が狭く、老朽化してきたことから、新庁舎の建設が昭和61年11月から駒形1-5-8でなされた。この場所は、昭和36年の住居地図では「中外印刷所」、昭和45年は「空き地」、昭和58年は「駐車場」であった。 昭和63年8月25日から台東区駒形1-5-8に「浅草消防署」が 移転して事務開始。

平成3年4月26日から「寿出張所」を廃止し、旧本署跡地の浅草橋3-10-5に「浅草橋出張所」に名称変更して移転された。同時に、日本橋消防署にあった日本橋馬喰町二丁目の「浅草橋出張所」が廃止された。

6.街のいろいろ

焼け残った電柱

浅草の街は、大正12年9月の関東大震災で区内の96%が消失している。 さらに、太平洋戦争の昭和20年3月9日夜から10日(当時の陸軍記念日)の東京大空襲により、焼夷弾を無差別に投下された浅草は、ほとんどの家々が消失した。わずかに、鳥越一丁目から小島町にかけての一部が戦火を逃れる事ができたにすぎない。

今も三筋一丁目に保存されている「焼け残った電柱」 からは、当時の戦災による厳しさが忍ばれる。


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