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東京消防庁赤坂消防署消防署紹介管内地図

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赤坂

「赤坂」旧マップ
旧地図と比較した現在の「赤坂」
現在の「赤坂」

赤い坂はどこにあったか

「赤坂」というと、港区が昭和22年にできるまでは、その北部の区名でした。そこは家康が江戸へ来る前の、永禄10年(一五六七)に開拓して、人継村といった所だそうですが、全部山畑で人家はありませんでした。

家康は江戸入りの時、伊賀の者にこの土地を与え、延宝3年(一六七五)から一木と書くようになったといいますが、実は一木の文字は、大永4年(一五二四)の江戸城攻撃の歴史書に、すでに書かれています。

赤坂の起こりは、見附から迎賓館に登る紀伊国坂のことで、坂上に茜草が生えていて、赤根山といったためだ、という説がよく知られていますが、染物屋が坂に赤い絹を干したからだとか、今のTBSの所へ登る赤土の坂があるからともいいます。
しかし「元赤坂」を称していた赤坂の集落の起源は、麹町へ上がる坂の右側にあって、それが寛永14年(一六三七)に港区側に移ってきたため、こちらの地名になったのかも知れません。

赤坂の文字を資料で見る初めは、明暦3年(一六五七)の地図で、これにも千代田区側の坂上に記されています。

その後まもなく、一木町、田町、新町、表・裏伝馬町を含めて、赤坂は、それらの頭にかぶせる地域名となったようです。

明治5年には福吉町、霊南坂町、檜町などの町名も赤坂の内にでき、同11年に青山も含めて赤坂区となりましたが、昭和41年の住居表示で、もとの赤坂一帯を元赤坂一〜二丁目と赤坂一〜九丁目としました。

赤坂見附

赤坂見附(過去)の写真
過去と現在の「赤坂見附」
赤坂見附(現在)の写真

赤坂見附とは、江戸城三十六見附のひとつであり、見附とは濠の門を指し、見張張所という意味です。明治5年(1872年)に撤廃されましたが、赤坂見附には赤坂御門の跡があります。

江戸城の門は、敵の侵入を発見する施設であるため、「見附」とも呼ばれ、二つの門が直角に配置された「枡形門」の形式を取っています。

青山

「青山」旧マップ
旧地図と比較した現在の「青山」
現在の「青山」

江戸時代最初の地名は「青山」『天正日記』という史料には徳川家康が、江戸へ来る直前に青山宿という宿場を作ったとあるのですが、これは偽物と判定されているので信じられません。

このほか、江戸時代になってできた地名だと推定される理由があります。青山浅河町など、青山のつく江戸時代の町名は、もと青山家の、敷地の一部だったからとか、その隣接地だったからとか、青山家の関係でつけたといわれていますし、渋谷や原宿の地名の間に「青山」が割ってはいっていることは、青山がおくれてできた証拠でしょう。

また、江戸時代より前には、付近の伝説などにも青山の地名がないこと、高樹町など周辺の地名を、青山の内とするようになるのは、明治以後だということなどから、やはり「青山」は、徳川家の重臣青山氏(美濃郡上藩四万八千石、現岐阜県)の屋敷から生じた地名に違いないでしょう。

五色不動の一つ、目青不動があって目青山といったのが、青山の地名起源という説もきくことがあるのですが、目青山不動があったのは明治時代のことですから、これは明らかに誤りで、新しい作り話です。

江戸時代には、郊外に接する土地で、俗に青山百人町と呼ばれる御家人の屋敷などがありました。八木節で歌われる鈴木主水が住んでいたという伝承で知られるところです。 明治5年に、町名のなかった武家屋敷地も合わせ、青山北町・南町などとなり、住居表示で昭和41年に、北青山、南青山となりました。

表参道

現在の「表参道」
現在の表参道

表参道に沿って「神宮前」が移動 「表参道」といっても、まだあまり地名のような感じはしませんが、駅の名称は、しだいに地名代わりに使われるようになるので、その由来などを取りあげておきます。

よく知られているとは思いますが、これは明治神宮に参拝する一番重要な道として設けられたので、表参道といいます。現在、地下鉄銀座線・千代田線・半蔵門線の駅のある地点に始まって、渋谷区代々木神園町の神宮境内に到達しています。港区の町名では、南青山三〜五町目と北青山三丁目の接するところが駅の位置です。

この駅の場所は、路面電車があった頃、「明治神宮前」と停留所の名称で呼ばれ、地下鉄ができると、その駅は「神宮前」と呼ばれていました。

しかし、神宮前とはいっても、境内入り口から1キロメートルくらいも離れているし、千代田線の駅が国鉄原宿駅のそばにできて、この方が神宮のすぐそばにあるものですから、そちらを「明治神宮前」として、駅名を変更することになったものです。昭和47年10月のことでした。

表参道そのものは、大正9年11月1日の明治神宮鎮座祭に合わせて建設されました。当時、この道の位置は、港区側では、旧町名・赤坂区青山北六丁目で、その神宮寄りの方は、南豊島郡千駄ヶ谷町大字原宿の字南原宿と字赤羽根との境界に当たるところで、田畑らしいものも残っていたようです。

地上の目に見えるもので言いますと、神宮へ向かって最初の歩道橋のところまでが港区で、この通りには、“東京のシャンゼリゼ”という異名があります。

溜池

赤坂溜池は江戸初期のダム 虎ノ門の石垣は今もみられますが、そこから西北へ、赤坂見附まで広がっていた大きな堀であった溜池をしのぶよすがは、物の形としては何も残っていません。何年か前までは、名残の暗湶をのぞくと水流が見える仕掛けが山王神社の下の鳥居のそばにあったのですが、もうそれもなくなりました。

池の跡にできた「溜池町」という町名も、住居表示としてはなくなったのですが、高速道路の下の交差点名と、バス停の名前に残っています。歴史的には、江戸時代より前からの自然の池だったように描かれた図などもありますが、これは誤りです。

溜池はその名のとおり、人が水を溜めてつくったもので、慶長11年(一六○六)ごろできました。大名の浅野幸長(当時和歌山藩のち広島藩主)が家康にとりいって、江戸城防備の外堀の一環とするとともに、飲料用の上水ダムとしてつくった人工の湖なのです。今の不忍池以上の大きさがありました。

溜池は、水質もよく、風景も美しく、浮世絵などによく描かれました。琵琶湖や淀川からわざわざ鯉や鮒を取り寄せて放したという話もあり、蓮を植えてその花を鑑賞し蓮根を採取したといいます。

やがて周囲がだんだん埋め立てられて、屋敷や馬場・紺屋物干場などができ、水質も悪くなったようで、明治7、8年ごろ堰堤となっていた石を取り除いてから陸化しはじめ、渡し舟ができ橋をかけて、明治21年に赤坂溜池町ができました。今では名残の溝川も失われて、住居表示の赤坂となりました。

虎ノ門

虎ノ門は江戸城の右の出入り口 「虎ノ門」という町域は、「愛宕」の北にあります。虎ノ門は、もともとは江戸城の一番外側をとりまいている堀を渡るところにあった、いわゆる外廓門のひとつの名でした。

慶長11、12年(一六○六、七)ごろに石塁と土橋を架けたのが始まりで、櫓門が完成したのは承応(一六五二〜五五)年間ごろといわれますから、虎ノ門の名は江戸時代初期でも、少しあとになってできたのかもしれません。江戸城には、いろいろな門があってそれぞれ名前がありますが、動物の名をつけたのはほかにはありません。なぜ虎ノ門というのか、これにもさまざまな説があります。付近の大名屋敷に虎の尾と呼ぶ美しい桜があったからとか、大田道灌が出陣のとき、千里行って無事に千里帰るという虎にあやかって名づけたとか、虎の檻を通そうと門を改造したともいうのですが、確かではありません。

恐らく、江戸城からいって右手の出口にあたるので、四方に獣神を配する四神思想の右白虎に当てはめて、そう呼ぶようになったのではないでしょうか。辰の口は左青竜に相当します。

明治維新後、門は取り払われましたが、石塁は千代田区側の文部省と教育会館の間に残っており、堀の線が教育会館の床に記してありますし、記念の虎の像が交差点東北隅の地下鉄入り口の所にあります。正式町名になったのは昭和24年で、住居表示によって、昭和52年にはさらに範囲を広げました。

弁慶橋

弁慶橋(過去)写真 弁慶橋(現在)の写真
過去と現在の弁慶橋

紀尾井町と紀伊国坂に挟まれたところにあるのは弁慶堀と弁慶橋です。弁慶堀というのは、その昔、江戸城の外堀でした。いまや外堀は、そのほとんどが埋め立てられ、外堀通りへと姿を変えてしまいましたが、かろうじて残っているのが弁慶掘です。市区改正設計道路を清水谷から赤坂方面に連絡するために、外堀に橋をかけました。そして弁慶堀の名から弁慶橋と名づけられました。

銀杏(いちょう)並木

銀杏(いちょう)並木
《並木の総本数は、146本(雄木44本、雌木102本)》

4並列の銀杏の大木が作り出した、世界に誇り得る銀杏並木の景観。これを通し、正面に白亜の絵画館を望む人工自然美の素晴らしさ。若葉・青葉・黄葉・裸木と四季折々の美しさ。長年にわたる管理、手入れの良さが見事な樹形を作り出しております。明治神宮外苑は、大正15年(1926年)10月22日の創建でありますが、その苑地造成にあたり、青山通り正面からの直線主要道路は、左右歩道の両側に植樹帯をとり、銀杏樹をもって四条の並木を造成することになりました。これは、銀杏樹が樹姿端正・樹高よろしく・緑量も豊富・気品高く・公害にも強く、威厳を保ちつつ年間を通しての来苑者に好景観を呈示し、外苑の広幅員街路の並木として最適なものとの考えによるものです。

この外苑の銀杏樹がこの世に実生えたのは、造園界の泰斗・折下吉延博士(外苑造成時の庭園主任技師 昭和41年86歳で没)が、新宿御苑に奉職中の明治41年(1908年)新宿御苑在来木の銀杏樹から銀杏を採集し、これを種子として代々木の宮内省南豊島御料地内(現在の明治神宮内苑)の苗圃に蒔いたことによります。その後、苗圃の木々はすくすくと成長し、その数1600本にもなりました。

外苑造苑にあたり、この銀杏樹を採用することとなり、既に樹高6b内外に成長していた、これら多数の中より候補樹を選抜し、更に並木として適格になるよう年々樹形を整えてきたものを大正12年(1923年)に植栽したものです。

直路四条の並木と、途中西折して女子学習院正門(現秩父宮ラグビー場)に至る二条の並木も同時に植えられております。最高24m・目通り周り2m80cm、最低17m、目通り周り1m80cmのものを樹高順に青山口より降り勾配に従って植えられております。絵画館を眺む見事な遠近法の活用です。

この銀杏が、苗圃で実生えてより実に80有余年、外苑に植栽されてより早や70年、このように雄大に美事な樹形を保ちつつ成長しております。銀杏樹は植生の環境、手入れが適当であれば、その成長量がいかに偉大であるかを如実に物語っております。

樹木の運命は、その立地の適不適によって決められるものでしょうが、よき所でよく育てられ、よき場所に植えられた樹木ほど幸運なものはないでしょう。同じ時期に同じ苗圃で育てられてきたこれら多くの兄弟木は、世にも稀なる幸福な樹木と言えましょう。今後幾百年これら兄弟木の銀杏は、生長に生長をつづけて老大成し、その偉大なる勇姿を発揮し、外苑々地と融和し、我々に美事な人工自然美を楽しませてくれることでしょう。(神宮外苑協力「銀杏並木案内」引用)

青山霊園

青山霊園・桜並木

▼港区の北西に位置してビル街の中にありますが、園内を縦横に走る桜並木を始め、武蔵野の面影を留める樹木が生い茂り、落ちついた雰囲気を保っています。広さは、約26万uで、園内は明治以来の古風で個性的な、大小様々の墓所(外国人墓地・警視庁墓地等の記念墓域、明治維新の功労者や文学者・科学者・芸術家・政治家等の著名人の墓所)が数多くあり、日本の歴史をたどるようです。
(青山霊園管理事務所協力)

旧乃木邸

旧乃木邸
赤坂8−11−32区有形文化財

旧乃木邸は、日清・日露の両戦役に従事し、明治天皇崩御と共に殉死された陸軍大将乃木希典の邸宅です。この邸宅は、フランス軍隊の建物を模して自ら設計したものと言われており、明治35年(1902年)に新築されたものです。この建物は、地階の天井が1階の床板となり、1階の天井が2階の床板を兼ねる無駄のない構造となっています。今日から見れば、庭が広く大邸宅にも見られますが、当時の将官の住居としては大変質素で、少ない建坪を経済的に工夫してあり、簡素で合理的に造られた邸宅は、明治期の和洋折衷建築として貴重なものです。旧乃木邸と馬小屋は、大正元年9月13日乃木夫妻殉死後、遺言で東京市に寄付され、現在は港区が管理しています。
(港区役所「旧乃木邸のご案内」から引用

根津美術館

根津美術館外観
(©藤塚光政)

根津美術館は、昭和15年に初代根津嘉一郎の遺志によって創立され、翌年開館しました。蔵品の基幹となっているのは、根津翁の収集になる日本・東洋古美術品で、絵画、書跡、彫刻、陶磁、漆芸、金工、木竹工、染織そして考古と多岐にわたり、それぞれの分野に数々の名品が含まれております。茶の湯の道具と仏教美術はことに内容の豊かなものとして知られ、中国商周時代の青銅器も世界的に著名な蔵品です。テーマや季節にあわせ、年7回の展覧会を開催しています。

また敷地内には1万7千uの緑豊かな庭園が広がっています。4棟の茶室や石造物が点在する園内には、四季折々の自然を楽しむ散策路が整備されています。このほか、ミュージアムショップやカフェも充実。

国宝燕子花(かきつばた)図尾形光琳筆 国宝 燕子花図(かきつばたず) 右隻(うせき)
尾形光琳筆
江戸時代 18世紀 根津美術館蔵

外界と隔絶した金箔地一色の大画面に群青と緑青だけを用いて燕子花の群生を没骨描で表出しています。

現在の5000円紙幣の裏面に使用されています。

氷川神社

氷川神社写真

創立の起源は、古い書物によると、天歴5年(村上天皇 951年)武州豊島郡人次ヶ原(俗称…古呂故ヶ岡・赤坂4丁目一ツ木台地)に祀られました。

これよりおよそ百年後の治歴2年(後冷泉天皇 1066年)、関東に大旱魃が発生、降雨を祈るとその霊験(しるし)があり、以来よく祭事が行われました。

江戸時代、幕府の尊信は篤く、八代将軍 徳川吉宗公が享保元年(1716年)将軍職を継ぐに至り、同14年(1729年)に老中岡崎城主水野忠之に命じ、現在地(豊島郡赤坂今井台)に現社殿を造営、翌15年(1730年)4月26日に、一ツ木台地から現在地への遷宮が行われ、28日に将軍直々の御参拝がありました。

以後十四代家茂公まで歴代の朱印状(港区文化財)を下附され、一層の御神徳を高め、開運・厄除・良縁の鎮守神として尊崇を深められました。

古くより区内にあった古呂故(ころこ)稲荷、地頭(じぬし)稲荷、本氷川稲荷、玉川稲荷の四社を合祀し、明治31年に建造。幕末より赤坂在住の「勝海舟翁」により四合(しあわせ)稲荷と称しました。勝海舟筆の「四合稲荷社」という扁額も現存しております。

豊川稲荷

豊川稲荷写真 豊川稲荷写真

豊川稲荷とは、昔、順徳天皇第三皇太子である寒巖禅師が感得された、「稲穂を荷い白狐に跨り給う端麗なお姿」の豊川ダ枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)という霊験あらたかな仏法守護の善神です。

東京別院は江戸時代、大岡越前守忠相公が信仰された由緒あるご尊像を、明治20年にもと赤坂一ツ木の大岡邸から現在地に奉還し、愛知県豊川閣の直轄の別院となり今日に至ったものです。

本尊様は豊川ダ枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)をまつり、その左右には十六善神(じゅうろくぜんじん)、愛染妙王(あいぜんみょうおう)、摩利支天(まりしてん)、拝殿には大黒天もまつられています。

霊南坂 南部坂
霊南坂 南部坂
(赤坂1−10〜虎ノ門2-10の間)

江戸時代のはじめ高輪の東禅寺が嶺南庵としてここにあり、開山嶺南和尚の名をとったが、いつか嶺が霊となった。

(赤坂2-22〜六本木2-1の間)

江戸時代初期に南部家中屋敷があったためといい、「忠臣蔵」で有名。険しいため難歩坂とも書いた。

薬研坂 三分坂
薬研坂 三分坂
(赤坂4−17〜赤坂7−1の間)

中央がくぼみ両側の高い形が薬を砕く薬研に似ているため名づけられた。付近住民の名で、何右衛門とも呼んだ。

(赤坂5−5〜赤坂7−6の間)

急坂のため通る車賃を銀3分(さんぷん:銀1匁の10分の3 現百円余)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある。

乃木坂 安鎮坂
乃木坂 安鎮坂
(赤坂8−11〜赤坂9−6の間)

大正元年(1912)乃木将軍の葬儀と同時に幽霊坂の名は廃され、乃木坂に改められた。行合坂・なだれ坂とも呼ばれた。

(元赤坂2−1〜2の間)

付近に安鎮(珍)大権現の小社があったので坂の名になった。武士の名からできた付近の地名によって権田原坂ともいう。

紀伊国坂 江戸見坂
紀伊国坂 江戸見坂
(元赤坂2−1〜千代田区の間)

坂の西側に江戸時代を通じて、紀州(和歌山県)徳川家の広大な屋敷があったことから呼ばれた。赤坂の起源とする説もある。

(虎ノ門2−10〜虎ノ門4−1の間)

江戸の中心部に市街が開けて以来、その大半を眺望することができたため名付けられた。


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